栄山江流域は、独特の古墳文化を持つ地域です。古代、栄山江流域に暮らしていた人々は、大きな墳丘を築き、その中に複数の棺を埋葬していましたが、埋葬された人々は家族など近い関係にあったと思われます。また、彼らは甕棺を使用していましたが、大型の甕棺は栄山江流域でしか発見されていません。ほかにも、百済や伽倻、倭の墓に似た墓が発見されていることから、当時この地域ではさまざまな文化が混ざり合っていたことがうかがえます。
古代、栄山江流域に暮らしていた人々は、遺体を入れて埋葬するために土器製の甕棺を使用していました。栄山江流域の甕棺は、馬韓時代に本格的に登場し、次第にこの地域を代表する埋葬方法として定着していきました。 一つの墳丘から発見された複数の甕棺は互いに重なっておらず、当時の人々は、甕棺が埋葬されている場所が分かっていたと考えられます。これは、一つの墳丘に埋葬されている甕棺の主が全員同じ集団に属していたことを物語っています。 甕棺は、百済が栄山江流域に影響力を及ぼし始めた6世紀頃にも使用されており、この地域特有の文化が長期にわたって維持されていたことがわかります。